菅野貫首写真

我れ日本の眼目とならん(開目抄)

令和三年二月十六日宗祖日蓮大聖人ご降誕八百年をおむかえ致しました。心よりおよろこび申し上げます。

 日蓮聖人のお生まれになられた鎌倉時代は武士と貴族の社会であり、国の大半をしめる一般庶民は心の安らぎを死後に求め、生きている間は主に仕える「民草」にすぎません。しかし、お釈迦さまのお説きになられたみ教えはこの「民草」を含めた全ての人々を救うことであり、一部の特権階級の人々のためのものではありません。当時の佛教は口でこそ「民草」の救済を言いつつも実際は武士、貴族のものでした。それ故に日蓮聖人は佛教界に向かって
「あなた方の法華経の読み方、実行はまちがっている」
と正され、お釈迦さまが法華経でご遺言なされた「上行菩薩」のお立場で南無妙法蓮華経のお題目を弘められ、そのあかしとして久遠実成の本師釈迦牟尼世尊、お釈迦さまに
「我れ日本の柱とならん
 我れ日本の眼目とならん
 我れ日本の大船とならん」と誓願なさいます。
「私は日本(今なら世界)の人々の心の柱となり、全ての人が大安心の境地に至れるよう導きます。私は日本の人々の眼目となり、心の目を開かせ世の中を正しく見ること、正しく行動することを説きます。私は日本の人々の心の大船となり大安心を求める人々の安らぎの場、大船となります。」日蓮聖人三大誓願を私の領解で述べさせていただきました。
 日蓮聖人は南無妙法蓮華経を世の全ての人々が身(体)と口と意(心)でお唱えすることによってお釈迦さまご在世中救われた人々のように安らぎの境地に至られることを願ってのことでありました。
 この時からおよそ八百年、時代は変わっても世間の相、姿は少しも変っておりません。天変地異、戦乱は世界各地に広まり、疫病も又しかりであります。日本国内を見ましても貴族は居りませんが、「上級国民」の方々が私達「民草―一般庶民」とは別の生活をなされておられます。選挙、言論の自由はありましても肝心の民草は「選出した人の行動の正視」を忘れ、言論の自由は悪口の自由にのみ使われております。人々は心の面ではむしろ悪化しております。
 さて、お題目をお唱えする皆さん、日蓮聖人の三大誓願「柱、眼目、大船」は日蓮聖人お一人の誓願であってはなりません。私たち一人一人の誓願であるべきであります。この立場に立って私は今月の聖語を「我れ日本の眼目とならん」を紹介させていただきました。もちろん「眼目」のうしろには「柱と大船の境地」があります。そこで私たち民草の一人一人が悪意でない目で現実をしっかりと直視し、悪口でない言論を守り、世の人々がやっぱりお題目を唱える人はすごいと言われる「大船」になろうではありませんか。


合掌

日彰