人を善く成す者は強敵なり

釈迦如来の御為には、提婆達多こそ第一の善知識なれ。
今の世間を見るに、人を善く成す者は、方人よりも強敵が人をば善く成しけるなり云々。日蓮が仏に成らん第一の方人は景信、平左衛門、守殿ましまさずば、いかでか法華経の行者となるべきと悦ぶ。

(種々御振舞御書)

平成二十九年の新春を寿ぎ十方有縁の皆様のご平安を心よりお祈り申し上げます。
さて、今月の聖語でございますが、
『法華経提婆進多品第十二章に於いてお釈迦さまは〝自分が悟りを開き、人々を救済することが出来たのは、私の布教をさまたげた提婆達多のおかげである〟とおおせになっておられる。ちなみに善知識とは自分に善き教え、方法を教えてくれる人のことである。
 このことを今日の世相に照らし合わせてみると、人を大成させるのは、甘い言葉でほめそやす人よりも反対意見や敵対する人が居ることによって大きく成長するのである。かく言う日蓮も景信(小松原の法難)平左衛門、北条時宗(龍口法難)らの迫害によって法華経の行者としての確信が持てたのだ。と私は悦んでいる』


 今月ご紹介申し上げている「種々御振舞御書」は文永八年(一二七一)十一月一日、佐渡島、塚原三昧堂、極限のご生活の中で、今自分が受けているこの苦しみこそが法華経の行者としての確証であると確信なされ、法悦の中でおしたためになられた聖人魂魄の御書であります。
 平成二十九年、年始にあたり、お釈迦さま、日蓮聖人の善知識観をご紹介いたしましたのは、このことは平成の乱世に生きる私達への励まし、激励であると私は拝受しているからであります。今更申し上げるまでもなく、私達の人生は難多く、楽の少ないものであります。一口に難と申しましても受ける人の機根(佛教的生き方)によって大小深浅があり、一人の人にとって大難であっても他の人にとっては小難、いや難では無い、無難である場合もありましょう。と申しましても佛さまの眼からご覧になられては全て〝我欲〟から出たもの、〝我欲〟という元を断てば…。のご教示。でも私達凡夫の立場から言わせて頂けるなら「我欲と分かっているのですが」という言い訳が聞こえてきます。そこで今月の聖語のご教示〝善知識と受け止めなさい〟をご紹介申し上げた次第であります。「あの何でも反対論者がいなければ、ではなく、あの反対論があったから自分は最善の道を選ぶことが出未だと受け止めなさい。その人はあなたにとって善知識である。」と。
 もう一つ大事なことをお伝え致します。日蓮聖人は影信、平之左衛門たちについて「法華経の行者を証明するために悪役を引き受けられた。このことに感謝し成佛を祈ってやらねばならない。」と仰せであります。善知識と受け止めるにはここまでの領解(佛教的理解)が必要なのであります。


合掌

日彰