冬は必ず春となる
いまだ昔よりきかず、みず、
冬の秋とかえれることを

法華経を信ずる人は冬の如し、冬は必ず春となる。 いまだ昔よりきかず、みず、冬の秋とかえれることを。 いまだきかず法華経を信ずる人の凡夫なることを。
(妙一尼御前御消息)

 『法華経を信じ、お題目をお唱えしている人がもし人生の苦難に遭われたとしたら、季節の冬であると受け止めなさい。冬の後には必ず春がやってくる。古来冬から秋に逆戻りしたことはない。それと同じように法華経を信じ切り、本当の信仰者となった者が元の凡夫、我欲、執着にまみれた世界に逆戻りした例も無いのである。』
 健治元年(一二七五)五月、日蓮聖人五十四歳身延山に於いて熱心な信徒の一人、妙一尼から御衣のご供養を頂かれたことへの御礼と妙一尼が夫を亡くされたことに対するお慰めのご文章の一節であります。妙一尼という方は鎌倉武士の妻でありましたが、夫は幼な子を遺して亡くなってしまい、所領も無くなるとい困難の中で法華経、日蓮聖人を信じ強い信仰生活を守った方であります。
 伝承として日蓮聖人第一のお弟子・日昭聖人のご母堂であり、日蓮聖人が佐渡や身延山にいらっしゃった時に、物品だけでなく身の回りの世話をする者まで遣わせるという外護の方でもありました。先にも述べましたが、この時妙一尼は夫を亡くし、幼な子抱えての生活という、人生の苦難の中におりました。この妙一尼に日蓮聖人は「冬は必ず春となる」と励まされたのです。この励ましによって尼は子を育て、信仰者としての人生を全うされます。
 さて今月ご紹介申し上げました日蓮聖人のご教示について、私達凡夫の身に当てて拝受致しますとき、私はこのように思います。よく「苦しい時の神頼み」と批判される方がおられますが、私は違うと思います。苦しい時だからこそ一生懸命に心の底から祈るのです。この祈りは本物です。ご守護神に通じないはずがありません。ただ忘れてはならないのは、事が成就した時に「その時の祈りの気持ち」を忘れずに持てるかどうか、ということであります。「喉元過ぎれば熱さを忘れる」であってはならないのであります。人生に苦はつきものです。祈って祈って、お題目を唱えて唱えきり、ご加護を頂きましょう。


合掌

日彰